パラリンピック競技の記録が、また一段と速く、高く、強くなりました。
 
 日本パラリンピック委員会(JPC)が掲げたリオ大会の目標は、金メダル10個でしたが、日本の選手たちは、日本新記録や自己ベストを出しながらも、金メダルは残念ながらゼロに終わりました。
 選手もコーチも、ロンドンに比べて、明らかに競技レベルが飛躍的に向上したことを痛感したようです。
 
 なぜ、こんなに競技力が上がったのでしょうか。もちろん、障がい者スポーツが世界的に普及され、競技者が増加すれば、記録が向上することは当然であり喜ぶべきことです。

 その一方で、アメリカでは、負傷した米軍兵士にパラスポーツを奨励し、本人のリハビリだけでなく、現役復帰をさせて再び戦場へ送り込むために、パラリンピックを利用しているとの報道が、先日ありました。
 さらに、パラリンピックを平和の祭典というのは幻想だという意見もありました。

 しかし、負傷兵の失意を癒し、新たな生きがいにスポーツが利用されることは素晴らしいことであり、それもスポーツの価値ではないでしょうか。

 また、身体能力の高い兵士が、現在のパラリンピック競技レベルに追いつくことは容易であり、大会の意義を壊すとの声もありますが、それは参加者を排除する理由になりません。

 パラリンピックを目指す障がい者は、いかなる経緯や意図があろうと、競技場面においては、ルールに基づいて平等・公平な条件で競い合うこと、そのことに価値があるはずです。
 それが世界平和に向けたメッセージになるのです。

 パラリンピック・ムーブメントの究極の目標は、「パラスポーツを通じて障がい者にとってインクルーシブな社会を創造する」とIPCは掲げています。
 インクルーシブとは、あらゆる人が孤立したり、排除されたりしないよう援護し、社会の構成員として包み、支え合うという社会政策の理念と言われています。

 パラリンピックに至る選手の経緯や意図をあげて、パラリンピックの価値を問うことは、この「究極の目標」と相容れないことになります。
 
 では、オリンピックの選手はどうでしょう。取得したメダルの色によって、将来の処遇が大きく変わり、豪華な生活を保障している国は世界に少なくありません。
 また、韓国のように徴兵制が免除されるためにメダルを目指すケースも数多くあります。

 国家や為政者が、オリンピックやパラリンピックにかける様々な思惑を、どう排除するかは容易な問題ではありません。

 次回は、補助具(車いす、義足)の研究開発が進み、器具の差が勝負を分ける競技も増えてきたことについて、どのように対処すべきかを問いたいと思います。