カタールのドーハで開催された、世界陸上のマラソン競技の放映に、世界のアスリートが驚きを持って観たことは想像に難くありません。マラソンスタートを、なんと真夜中の0時という前例のない時間帯に設定しましたが、それでも女子レースは、気温32度、湿度74%と厳しく、40人中28人が途中で棄権し棄権率は約57%になりました。

 国際陸上連盟(IAAF)のセバスチャン・コー会長も、以前から、気候と選手の健康状態に関する懸念を示していましたが、コー会長はなぜ、カタールの酷暑期9月初旬に、世界陸上を開催したのでしょう。世界陸上も五輪同様に、放送権料は重要な収益源のため夏開催になってきましたが、それにもまして、オイルマネーに目がくらんだとしか思えません。

 また、この大会に合わせてドーハでは、世界のNOCが集まるANOC(各国オリンピック委員会連合)の総会が開催されていました。この総会において、IOCバッハ会長は、東京五輪のマラソンと競歩の開催について「札幌に移すことを決めた」と慌しく爆弾発言したのです。

 この唐突感は驚きでしたが、ANOCでは、おそらく世界のNOC関係者から、ドーハでのマラソン環境に相当の批判が集まり、その気配を察したコー会長がバッハ会長に対して、この総会の開催中に「来年開催の東京五輪マラソンは、札幌移転をIOCが決めた。」との公表を懇願したと察することができます。

 このコー会長は、米ソ冷戦でモスクワ五輪のボイコットの際に、英国政府の反対を押し切ってモスクワに渡り、陸上1500m金メダル、800m銀メダルを獲得して、イギリスの英雄になります。また、ロンドン五輪を大成功に導き、リオ五輪では、ロシアの国ぐるみのドーピングに最も厳しく対処するなど、オリンピック界では英雄であり、いずれIOC会長になる重要人物です。

 おそらく、コー会長は、ドーハ世界陸上のマラソン対策を大いに後悔して、バッハ氏に懇願したことは間違いありません。 それが垣間見えたのは、バッハ会長が、「札幌ドーム」をマラソンの発着点にするよう指示したとされていますが、札幌ドームの存在と施設特性を知っていたとは到底思えません。コー会長から耳打ちされたのでしょう。 (なお、札幌ドーム発着は無理との判断で、どうやら「大通公園」発着で検討するようですが、IOCの慌てぶりが見て取れます。)

 なお、今の世界陸上大会は、夏季・冬季五輪の間の年で2年ごとに開催されていますが、いまや夏季五輪の前哨戦にもなっています。

 今回のように東京への根回しもなく、東京五輪のマラソン移転を即決したことは遺憾ですが、バッハ会長の強権発動は、 ドーハ批判をかわすために、コー会長が依頼して吹き込んだと考えると筋書は立つのです。

 では、札幌移転で、暑さ対策は解消するのでしょうか。過去の世界陸上大会のマラソンをみても、谷口浩美選手が優勝した1991年の東京大会男子レース(午前6時スタート)では、気温27度、湿度74%(棄権率約40%)、2013年8月10日のモスクワ大会女子レース(午後2時スタート)では、気温27度、湿度66%(棄権率48%)でした。

 実は、マラソンの暑さ対策で重要な視点は、スタート時間よりもゴール時間帯の気温なのです。確かに、東京の8月気温より、札幌の気温は平均的に数度低いでしょうが、今回の札幌案では出発時間に言及していません。もし、現在の午前6時出発案であれば、東京の5時提案と比べて、ゴール時間帯の気温と湿度に大差はありません。ドーハの夜と一緒にされては困るのです。

 私は、2018年7月23日に五輪日程の発表内容に意義あり!を書き、5時スタートを主張していましたが、組織委員会のサマータイム期待の当てが外れて、6時案で止めたことが過ちだったのです。東京都も反省すべきです。

 さらに、男子マラソンが行われる8月9日は、夏至(6月21日)の1カ月半過ぎた頃の日の出ですから、4時台に明るくなります。コーツ委員長は、そんなことも知らずに、5時出発では、取材用ヘリが飛ばないと言っているのでしょうか。なお、4時半でも可能ですが、3時は論外です。

 なにしろ、コース設定、札幌の気象条件、経費抑制と費用分担、警備体制の練り直し、宿舎確保、地元行事との調整など、気の遠くなるような再準備が、あと8ヶ月ほどで間に合うのでしょうか。

 そのうえ、IPC(国際パラリンピック委員会)から、車いすマラソンのほうが、身体の位置が路面に近く、より危険なので札幌会場に替えてほしいと要望されたら、組織委員会は受け入れるのでしょうか。車いすはダメと言えますか?

 なお、オリンピック憲章には、IOC調整委員会の役割として「IOC理事会により付与された追加的な権限を行使する、またはその他の指示を出す。調整委員会が問題の解決は不可能と判断した場合、あるいは関係者が調整委員会の決定に従って行動することを拒否した場合、・・・直ちにIOC 理事会に報告しなければならない。最終的な決定はIOC理事会が下すものとする。」と明示しています。

 この規定に従ってコーツ委員長が「東京での開催はない。」と厳命しているとすれば、札幌移転が東京に戻ることはないことになります。