五輪開催は、人類が疫病に打ち勝った証し?

 先日、菅首相は、国連総会で一般討論演説を行い、1年延期になった「Tokyo2020大会」について「来年夏、人類が疫病に打ち勝った証しとして開催する決意である」と世界に表明しました。

 なお、安倍前首相も、国会答弁を含めて何度も「人類が感染症に打ち勝った証しとして開催する」と述べていました。

 私は、この発言に強い違和感を覚えています。

 まず、「人類が打ち勝った証し」とは、どのような状態をイメージしているのでしょう。

 「人類が」とは、「世界中が」あるいは「人間が」と言う意味でしょうか。また、「打ち勝った」とは、世界中の新型コロナ蔓延が終息に向かったというWHOの宣言でしょうか。

 まさか、世界が終息に向かっていなくても、日本国内で完璧な防疫を実施することで、安全に「Tokyo2020大会」を開催できるようにしたとして、「打ち勝った」と言うつもりではないでしょう。

 さらに、アフリカなど発展途上国では、今後もコロナ蔓延期が続き、選手派遣どころではない、あるいは出国できない国があったとしても、「打ち勝った」と言うのでしょうか。

 そういえば、安倍前首相が、1年延期を提案する時に「完全な形で」と言った言葉が、後に「世界のアスリートや観客にとって安全・安心な大会、すなわち『完全な形』で実施できるよう、競技実施と観客の安全確保ができれば「完全な形」の大会になる」と、解釈を変えたことがありました。

 これから開会まで、コロナ蔓延の推移評価のたびに、「打ち勝ったのか」「証しになるのか」と、問い詰められることになるのは必定です。

 また、延期五輪の開催については、追加経費に関心が集まる中で、9月24日、25日に、組織委員会とIOC調整委員会が、経費削減を示した「簡素化案」を話し合い、52項目がまとまったと公表されました。内容は、大会関係者の削減や、サービスレベルの見直しなど、限られた経費削減に止まっています。

 削減項目の多くは、もともと招致段階でアピールしていた潤沢な「おもてなし」案を平準化しただけであり、組織委員会だけでなく、追加経費の大幅な削減を期待していた関係者にとって、極めて不満な合意内容でした。

 挙句の果て、コーツ調整委員長からは、これが結論のように「コロナ後の世界に合致した新たな大会を目指す。これを東京モデルと名付け、将来の大会にとっての青写真になる」と褒められる有様です。

 これからの五輪大会は、世界大戦がなくとも、地域紛争、政治対立、疫病、気象変動など、深刻な事態に直面し、開催のたびに大会のあり方が問われることは避けられません。

 現在の巨大化した夏季五輪大会は、古代マンモスが地球変動に耐えられず滅んでいった姿と同じように見えるのは、私だけではないはずです。

 この段階での私の提案は、組織委員会が、大会のあり方を早く明確に提案すべきだと主張します。

 まずは、「来夏の五輪は無観客であっても開催する」と国内外に宣言して、予定していた仮設席はすべて設置しないと明言し、最終的には常設席をもって満席とすると決めることです。

その上で、現在のJリーグやプロ野球の観客数の拡大方式のように、コロナ渦の推移を見極めながら、徐々に20%入場可能、50%入場可能と科学的データを基に公表していくべきです。

 それにより、最も追加負担が懸念されている、仮設席を含むオーバーレイや警備配置・入場作業の大幅な削減が可能になるはずです。

 組織委員会が渋るのは理解できます。約900億円のチケット代が大幅に減収になるだけでなく、チケットの払い戻しや再抽選などの業務を考えると、採用したくない選択肢のはずです。

 一方、IOCは、将来的な五輪のあり方について、33競技339種目まで肥大化した、巨大マンモス五輪を見直し、持続可能な夏季五輪に改革するというメッセージを、これを機に世界に発信すべきです。

 五輪に関する抜本的な構造改革は、これまでも指摘され、IOC内部でも議論されているはずです。

 第1は、肥大化した夏季種目のうち、冬季でも実施可能な競技を冬季に移行して、夏季五輪の競技・種目数を軽減すべきです。

 第2は、プロ世界が中心の、ゴルフ、テニス、サッカー、ラグビー、野球、ボクシングや、世界的に普及が十分でない(あるいは、なくなった)競技などを五輪から外し、開催都市が求める場合は、追加種目として少数限定で認めるべきではないでしょうか。

 後世の人が、延期された東京五輪を機に、将来の五輪大会の有り方が抜本的に改善されたと、評価することを期待したい。