開会式を鎮魂の式典に!

 組織員会が、五輪開会式の演出は機密性が重要であり、事前に洩れることは演出の価値が大きく毀損されるとして、その演出案を洩らした「週刊文春」に対し、「著作権法違反」や「業務妨害」だと非難していますが、こんな低レベルの争いを引き起こすこと自体、暗澹たる思いです。

 五輪開会式については、式典担当だった前任の佐々木氏が、女性タレントを豚扱いにしようとした醜悪な発想が、ばらされて辞任した後も、時間的余裕がないとして積み上げてきた開会式検討案の基本は引き継いで進めると、組織委員会は公表していますが、そんなに発想が乏しいのでしょうか。

 五輪史上続けてきた開催価値を披歴する開会式のパフォーマンスは、確かにこれまで組織委員会の評価となる一つの目玉企画でした。しかし今回は、大幅な観客数削減、時間短縮、経費節減を受け入れて企画すると表明しているのです。それなのに、いまだ初期の「オリ・パラ開閉会式4部作」構想にこだわっているのでしょうか。

 ならば提案をしたい。今回のコロナ渦における五輪・パラ大会は、現在の世界情勢を憂慮したうえで被害者を鎮魂(慰霊でもよい)し、将来に希望をつなぐ思いを込めた表現にするのです。

 まずは、五輪開会式を「鎮魂の式典」にすると事前に世界に向けて公表すべきです。これなら大掛かりな仕掛けが必要ないので、短期間でも開会式典の準備ができます。

 その上で、すべての大会関係者は、同じ「鎮魂リボン」を期間中に、競技に支障のない範囲で身に付けるべきです。

 どうせ、国内のコアな五輪反対論者が、一斉に「ごまかしだ」と非難することは分かっていますが、それでも世界に向けて事前に公表して粛々とやるべきです。

 そして、もし開催するなら「無観客だけが唯一の開催条件」と即刻公表すべきです。このブログでは、昨年から無観客を主張し続けてきたのですが、組織委員会は、いつまでも未練がましく「5割程度は何とか・・・」の、微かな可能性(祈り?)にしがみ付いて、その上、観客数の判断は6月まで「待ってくれ」と先送りしていました。

 しかし、それが裏目となり感染拡大の懸念が増幅したために、今頃になって、やっと組織委員会や政府筋から「無観客」も「やむを得ない」と言い出したのです。もう遅すぎます。あのセバスチャンコー氏も、すでに1月の段階で「大会を開催できる唯一の方法は無観客」と日本側にメッセージを送っていたのに・・・

 また、「プロ野球」や「サッカーJリーグ」は、定員の半数ほどを入場させて、主催者側は「クラスターは発生していない」と安全をアピールしていますが、問題は行き帰りの移動・人流であり、特に岐路での行動です。ですから「無観客」と「少数入場」とは、感染危険度は全く違うのです。それに、「無観客」であれば都市ボランティアはゼロになり、競技ボランティア数も相当に限定できます。

 さらに、鎮魂の開会式にするにしても、観客は入れずに、旗手と数名の役員だけの行進に変えるべきです。なお、参加を希望する各国の選手・役員を入れるにしても、観客席に距離を置いて座席を固定すべきです。無観客と矛盾していると言われるかもしれませんが、選手・役員の開会式場への移動は、完全なバス移動だから問題が発生しません。 

 このような詳細な行動規範は、国民の懸念が深まる前に先手を打って説明すべきなのに、組織委員会の発信は、「追い込まれ弁解」に終始しており、信用されないどころか批判対象になっています。さらに、政府関係者が「コロナ禍で分断された人々の間に絆を取り戻す大きな意義がある」と、国民の不安感に対して鈍い発言をするようでは、墓穴を掘っているとしか思えません。

 どうやら例えれば、批判される現政権の「追い込まれ解散」に似てきました。