東京で開催されるIOCの理事会・総会に先立って開催された「各国オリンピック委員会連合(ANOC)」の総会に出席するために、北朝鮮の金体育相(五輪委員長)が東京に到着しました。いうまでもなく、日本政府は北朝鮮籍の人物の入国を禁止していますが、今回は総会出席だけを条件に例外処置として入国を許可したのです。

 ところで、北朝鮮の五輪参加問題について、バッハ会長の言動・行動をさかのぼって、もう一度確認します。

 まずは、今年2月の平昌冬季五輪の前に、北朝鮮を取り巻く米朝対話や南北融和が世界的に注目されていることを踏まえ、バッハ会長は、スポーツを通じて南北融和を果たそうと、前のめりになって自ら演出を始めます。世界からは、政治利用ではないか、ノーベル平和賞ねらいではないのか、などと散々揶揄されたのです。

 なお、IOC及び歴代会長には、以前からノーベル平和賞への思いがあったことは知られています。平和運動としてオリンピックを主導してきたIOCの歴史は、ノーベル平和賞の受賞に値すると、個人的には、思っていました。しかし、会長個人は、対象にすべきではありません。特に、バッハ会長は論外だと感じています。

 しかし、バッハ会長は怯むことなく、平昌五輪後の3月終わりに自ら北朝鮮へわたり、金正恩委員長から東京五輪への参加意志を取り付け、日本に向けて入国を認めるようアピールしました。その時には、組織委員会の森会長と東京都の小池知事が、それぞれ、日本には独自の問題があると違和感を述べています。

 次に、バッハ会長は、6月23日のオリンピックデーに、スイスのローザンヌにおいて、韓国と北朝鮮の融和に向けた卓球の親善エキシビションマッチを開催し、日本からは福原愛選手と張本智和選手が参加したのです。その上でIOC本部に、日本、北朝鮮、韓国、中国の政府と五輪の関係者を集めて、20年東京五輪、22年北京冬季五輪への北朝鮮選手の参加支援について要請しました。

 さらに、バッハ会長は、国際競技団体(IF)に対して、参加資格のある選手が国際大会に参加する際に、国家間の外交的な対立問題によって入国を拒否されたり、権利を制限されてはならないとする文書を送りました。

 その原因になったのは、スペインのマドリードで開催された空手の世界選手権において、セルビアから独立したコソボの選手に対して、スペイン政府がコソボ国旗の使用を禁じたり、インドのニューデリーでは、ボクシングの女子世界選手権において、コソボ選手の入国を政府が認めなかったことに起因しています。

 しかし、この文書送付も、北朝鮮問題を意識しての対応であることは、間違いありません。

 いうまでもなく、IOCは、スポーツ憲章等に基づいて、政治的・宗教的な理由で、スポーツ選手に不利益を課してはならないと非難することは一貫しています。

 しかしそれならば、バッハ会長は、平昌冬季五輪において、女子アイスホッケーチームが南北合同になり、直前に北朝鮮選手が加わったため、せっかく団結してきた韓国選手数名が、泣く泣く外されて失望したことを、忘れたわけではないでしょう。まして、韓国の文在寅大統領が、どうせホッケーは弱いのだからいいではないかと選手の傷口に塩を塗るような発言は断じて許されません。

 話を戻します。今回のANOC総会において、バッハ会長は、韓国と北朝鮮の南北融和を促進するため、両政府と、来年1月にIOC本部で、和平を深めるために何ができるか、新たな対話をすると述べました。

 それだけではありません。平昌冬季五輪で世界に希望をもたらしたとして、韓国と北朝鮮のアイスホッケー女子合同チーム「コリア」に団体賞を授与したのです。壇上には、韓国と北朝鮮の選手とともに、北朝鮮の金体育相も登壇し、バッハ会長からトロフィーを受けとったとのことです。

 北朝鮮と韓国が合同チームとしてオリンピック出場を果たすことは、平和的象徴として素晴らしいことであることは論を待ちません。ただし、オリンピックに出場したくても、予選で涙を呑んでいる国や地域の選手が多くいることに配慮しないで、特別扱いで予選をスルーして出場させることは、選手の権利を平等公平に保証するオリンピック憲章に反することを、IOCはもっと考えるべきでしょう。

 最後に、バッハ会長が、なぜここまで北朝鮮問題に対して、自らタクトを振って指揮を執るのかを考えるとき、1953年生まれのドイツ人バッハ氏が、東西ドイツの分裂に苦しめられた時期に、オリンピック選手だったことに思い至ります。

 周知のように、1961年から続いたベルリンの壁が1989年に崩壊し、1990年10月にドイツが統一されました。バッハ氏は、東西に分断されていた旧西ドイツの選手として、1976年モントリオール五輪においてフェンシングのフルーレ団体で金メダルに輝き、ドイツ統合あとの1991年にIOC委員となり、1996年に理事に就任します。さらに、2000年から2013年まで副会長を務めたうえで、2013年にIOCの会長となったのです。

 バッハ氏は、自らそれを披歴しませんが、明らかに東西ドイツの分裂と統合の歴史が、北朝鮮問題に投影されていると推測されます。